わたしたち日本人には気骨というものがないのか 井上ひさしの遺作「一週間」(1)

俺は井上ひさしの良い読者とは言いかねる。
と思っていたら案外読んだ本があったのに驚いたということは前に書いた
「志ん生と圓生」戯曲・こまつ座「太鼓たたいて笛ふいて」のことなども。
「青葉繁れる」とか「モッキンポット師の後始末」などの初期の作品は生き生きとしたユーモアが実に楽しかった。
「吉里吉里人」はそれほど抱腹絶倒とはいえなかったかなあ。
風刺とか抗議みたいなものが入ってくるとユーモアの弾け方がちょっと変わってくるのかもしれない。
それにしても偉大な作家だった。
”偉大な作家”と思わせない。
親しみを感じさせるわかりやすい文章、高潔な英雄ではなくて俺と同じような煩悩多き凡愚と同じ視線で世の中のことを描いた。

しかし、
いけないことはいけない。許せないことは許せない。
人間の生命を軽んじることは許せない。
力があるくせにそれを自分の利益のためにのみ利用して弱いものをいじめるのは断じて許せない。
そういう点においては俺などが逆立ちしても七たび生まれ変わってきても追いつけないほど頑固に譲らない作家だったような気がする。
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この小説は小説新潮に2000年から20006年にかけて断続的に連載されたもの。
本当はまとめて単行本にするときに遅筆堂(井上の戯号)らしくみっちり筆を入れるはずだったろうに、果たせずして死んでしまった。
だから読者のために同じ説明が繰り返されたものがそのままになっていたりする。
全体のまとまりもやや不十分だ。
悔しい想いだったろう。

昭和21年、戦争は終わったはずなのに旧満州国にいた関東軍兵士たち60万人はそのままロシアの収容所でソ連の戦後復興作業の労働力として酷使されていた。
国際法によれば捕虜は戦後速やかに帰国させなければならないと決められていたが「生きて虜囚の辱めを受けず」なる戦陣訓の教えがあったから将校はそんなことを知らない。
加えて日本自体がそれだけの人々を受け入れる余力もなくいわば労働力が欲しいソ連と関東軍幹部の合作で彼らは酷寒の収容所で塗炭の苦しみを味あう。
戦争終結の間際になってソ連が満州に攻め込んだのも、たぶん労働力が欲しかったからだと睨んでいますが、、しかも関東軍司令部がまんまとソ連のこの国策に乗ってしまった。なにしろ関東軍司令部の参謀たちは、日本兵士の使役を極東赤軍司令部に申し出たりしているんですからね
作中で収容所を脱走3千キロ(この脱走回顧談が傑作、いかにも井上節)の末に”わざと捉まった”日本人医師の言葉だ。
軍幹部や満鉄幹部の家族などを除く一般日本人たちも棄てられたのだ。
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(挿絵は山下勇三)
しかも敗戦により日本軍は解体したはずなのに収容所はそのまま旧軍隊の組織がのこされソ連は間接管理だった。
就労しない将校たちは兵の食糧をピンハネし、私用に兵を使い、リンチも生きていた。
そのために死ななくてもいいはずの兵たちが死んでいく。
ハバロフスクの収容所に移送された主人公・小松は直接ソ連の極東赤軍を相手取って収容所の管理体制を変えようとする。

その手立ては?
レーニン若かりし日の手紙、そこには少数民族を大事にするために戦うという決意が述べられている。
そのレーニンが、社会主義の利益は少数民族の利益を上回るとして少数民族迫害を容認しているのは革命に対する裏切りではないか。
この手紙が小松の手に入る。
とてつもない武器だ。

1週間の小松の闘い。
スパイアクションもどき?ではない、知恵と口先三寸の大冒険。
シリアスな状況なのに大笑いな冒険だ。
漫画のような登場人物たち、恋あり、セックスあり、
太陽が少しでも顔を出すとどんなに大事なことをしていても外に飛び出して陽光の恵みを受ける。
春、初めて土を見て踊り出す人々。
北満州の厳しい自然が物語の底に流れる。
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小松より先に戦おうとして将校たちに撲殺された哲学者が死の間際に小松に託した手帳。そこには、蝿の頭よりも小さな、しかし几帳面な字で
もし命を永らえて帰国することができたときは、以下の諸点について全生涯をかけて徹底的に追求すること
と書いてあった。
以下の諸点とは?

1、捕虜収容所に旧軍の諸制度を持ちこんだ(そのために多くの兵士が死ななければならなかった)日本軍将校および下士官たちは、国際法違反の罪に問われなければならない。
 いったい、旧軍の将校下士官たちの国際法についての無知あるいは無視は、どこからくるのであろうか。
2、「民主主義」を仮面に新しい支配階級となっている連中にも注意せよ。
 われわれ人間が生きて行くためには、世界がどんなふうにできているかという世界観と、世界がそんなふうにできているならこう生きようという処世訓が必要だが、そのときそのときの利害に合わせて、この世界観と処世訓を簡単に変えてしまう人間が多い。
彼らを信用してはいけない。(略)
(彼らは機会がくれば)また簡単に旧来の世界観と処世訓に逆戻りするだろう。
 世界観や処世訓を変えなければならなくなったとき、たいていはその苦しみのために大量の汗と血を流すものだが、どうして、わたしたち日本人捕虜は、かくも簡単に、たったの一昼夜で、自分の世界観や処世訓を変えてしまうことができたのだろうか。
捕虜になったからといって、思想まで変える必要はないはず。どうしてやすやすと「わたしが悪うございました」と揉み手をしてしまうのだろうか。わたしたちには気骨というものがないのか。
3、日ソ中立条約を堂々と破って恥じないスターリン外交を究明すること。
4、日本政府は、少なくとも昭和18年の後半には、和平交渉を進めるべきだったが、だれもそれを決断できなかった。状況判断の鈍さと決断力の欠如、これは何に由来するのか。それを考究すること。

どうやら井上ひさしの遺言かもしれない。
新潮社
Commented by at 2010-07-09 12:58 x
人はほとんどそんなもんかと・・・
私の住んでいる国は、長い世を西洋国に占領されていません。とゆうことはあっちに付き、こっちに振りやったわけです。
気骨とは縁のない国ですが、気骨な人は居たよぉです。
未だ、会ったことがないですけど・・、
Commented by cocomerita at 2010-07-09 15:49
Ciao saheiziさん
残念ながら蛸さんに賛成
そして、それを歯を喰い縛ってでもやらない人が、だからひときわ輝く

井上ひさしさんの「父と暮らせば」大好きな作品です
戦争で犠牲になった人を忘れず、戦争の矛盾に対して、
大きく小さく でも常に声を上げ続けた、数少ない、気骨のある作家だったと思います。

ぁ、最後に
物議をかもしだすかもしれませんが
日本人に生まれていながら、外人に似せようとする整形が
こんなにはびこる日本は、やっぱり気骨がないと
一時はあったかもしれないが、骨抜きにされた。と思わざるをえないんです。
しかし、戦争時の軍司令部の 人間とは思えない、意地汚い恥知らずなずるい行動、何べん聞いてもムラッと苦いものが胃に湧きでてくる
Commented by namiheiii at 2010-07-09 17:39
>日本人には気骨というものがないのか。
その通りだと思います。敗戦時、旬日にして殆んどの日本人は軍国主義から民主主義へところりと変りました。教科書に墨を塗った中学生の時代、日本人が信用出来なくなったのはその時からかもしれません。
マッカーサーが日本人の精神年齢は12歳と言ったことがありますね。
Commented by saheizi-inokori at 2010-07-09 20:34
蛸 さん、もしかすると昨日も今日もすれ違っているのでしょうね。
Commented by saheizi-inokori at 2010-07-09 20:36
cocomerita さん、一番気骨のないのはエリート衆だったかもしれない。
今もそうですね。
Commented by saheizi-inokori at 2010-07-09 20:39
namiheiii さん、http://pinhukuro.exblog.jp/12682314に書いた日本人捕虜の実態はなんでもべらべらしゃべってアメリカ人を驚かしたそうです。
これが神風かと。
Commented by cocomerita at 2010-07-10 10:09
saheiziさん、気骨のあるなしってさ
責任感のあるなしと共鳴しません?
自分でリスクを恐れずに正面から取り組み、
自分のジャッジの結果はもちろんのこと、自分の部下、仲間のやったこともまとめて責任を負う覚悟がある
そういう人は、気骨があるよねえ
だからさ、てめーの失敗が明るみに出るのを恐れるあまり、それを部下もしくは他人の責任にしたりする人が多いであろうエリートは、(そういうことしないと、彼らが今上り詰めたところまで上がってけないんじゃないの?)
骨抜かれたクラゲ...いやクラゲにも骨はあるから..
もう太鼓判の骨抜きかもねー  ^^
Commented by saheizi-inokori at 2010-07-10 11:15
cocomerita さん、今、キボネ=気骨論をアップしたばかりです。
おっしゃる通り、気骨が求められるのは指導者=エリートたちに対してだと思いますよ。
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by saheizi-inokori | 2010-07-09 12:23 | 今週の1冊、又は2・3冊 | Trackback | Comments(8)

ホン、よしなしごと、食べ物、散歩・・


by saheizi-inokori