映画「インフォーマント!」から「セバスチャン・サルガド アフリカ」(東京都写真美術館)へ
2009年 12月 08日
アメリカの大企業/ADMが日本の味の素などと価格協定を結んだのを内部告発する主人公(マット・デイモン)が大うそつきで自分も1000万ドルもの不正を働いていたという“病めるアメリカ・断末魔のアメリカ”を象徴するような実話をもとにした映画だ。
いわば死に瀕したアメリカないしは現代資本主義とでもいおうか。
映画館から50メートルも離れていない美術館では「セバスチャン・サルガド アフリカ 生きとし生けるものの未来へ」だ。
飢餓、殺戮、干ばつ、この世の終末かと思えるほどの災厄がアフリカの人々を襲っている。
真っ先に犠牲になるのは子どもたちと女、そして老人。
皺だけしかない干からびたような乳房にすがりつく双子は骨格が浮き出た頭部だけが異様に大きく体はしなびている。
砂漠の難民キャンプで死に瀕した息子を抱いて立ち尽くす父親。
若く美しい母親の腰のあたりからこちらに顔だけを見せている赤ん坊、どちらの目も絶望を見つめている。
美しさも子どもの誕生も彼女は歓ぶことを許されない。
親子、家族の写真が多い。
宗教画を観ているような感じがしてきた。
聖母マリアを囲む黒い聖家族。
ほとんどが生きることをあきらめなければならないような聖家族だ。
悲しみを通りこして美しさを感じた。
死に瀕したものの美しさというものがあるのだろうか。
それにしては同じく死に瀕しているアメリカ大企業の役員たちの醜く肥った姿と対照的なこと!
何十万人もの難民が希望を求めてキャンプから祖国へ、祖国から追い出されてキャンプへと歩きまわる写真は旧約聖書の世界を想わせた。
13日まで。
「木村 伊兵衛とアンリ・カルティエ=ブレッソン 東洋と西洋のまなざし」展も同じ美術館で開催中、こちらも見ごたえのある展覧会だ。
戦後すぐの東京の子どもたちが登場する木村作品、これは貧しさの中に未来への希望を感じさせる明るさがある。
この子たちが俺だったのだ。
今に思うとそれが不思議でなりません。
辞書を引けば済むことでしょうが、なかなか(笑)
なんというのでしょう、
結局、居心地のよいところにいても、
荒野に一人取り残されても、
私は神(のようなもの)と共にあると思えば
なんとかならなくてもなんでもありません。
それを不幸と言い、なにかしたくてたまらないのは、
心のどこかに免罪を求める気持ちがあるからなのでしょう。
それでも私はよいと思います。
まだまだ性善説を信じたいのです。
罪のない者の悲しさ、美しさ。
悲劇とはそういうものじゃないですか。
生きるために争うさまは醜いですね。
いや、アフリカの権力の腐敗は、「生きるため」とは言い難い。
我々も、少なくとも私は、ま、醜い部類です。
悲しさを感じるだけ救いがある、と思うことにします。
この人の写真はどんなに悲惨な状況を撮影しても本当に美しい。
綺麗ではなくて美しい、、美とは死や陰もふくまれてこそ美ですから。
それに表現が美しいから妙な同情や、思い入れが入り込めない。
存在そのものの尊厳が人に伝わると思います。
私は写真は世界を写すものであるからこそ美しくあれ、と思っているの。
だからただ、悲惨なだけの写真は嫌い、、美意識なくシャッター押しただけじゃないのよ、と思ってしまいます。
この展覧会は券を買ったので今週観に行く予定で〜す。
彼等の存在自体の尊厳と、それに真摯に向き合うサルガドの魂の出会いから、あの奇跡のような写真が生まれるのでしょうか。
ほんとは生きて輝く美しさもあるのにねえ。
1000万ドルを懐に入れる会社役員、母親からいくらもらったかも知らない首相もいるのに。
豚のように肥ってあさましく食いまくる方が幸せ?
私もね、この木村伊兵衛とアンリ、カルテイエ、ブレッソン行きたかったんですよねー
だけど、なぜだか日本は次から次へと用事が入り、映画さえ行けないんです。
残念。
昔、イタリアで第二次世界大戦時の東京大空襲の後の人々のドキュメントを見たことがあります。
あんな悲惨な状態で、焼け野原で鍋で煮た気をしている人々の顔がなぜか晴ればれと希望に燃えているかの様でとても美しかったのにびっくりしたのを思い出しました。
それに比べて物の溢れかえるこの世の中の今の人々の顔の方がさびしく死んでいるかの様なのはなぜなんでしょね。?
まだ経験したことがないなぁ・・・
ものをもち過ぎて心も雑念ばかり!