物の見方を変えてみる 呉智英「ホントの話」(小学館文庫)
2009年 11月 27日
「犬儒派だもの」(双葉社)という著書もあるようにシニカルで辛辣な評論。
とても読みやすい文章でユーモアもある。
「人権真理教」、オウム真理教事件以後、著者が使い始めた言葉。
人権思想があたかも宗教のようにイデオロギーとなっていると語る。
人権の名のもとにフランス革命とその後の戦乱で殺された人の数は両次大戦におけるフランス人犠牲者数より多かった。
人権はなぜ大切なのか、人権思想そのものに懐疑と批判の目を向けるべき時が来ている。
死刑制度には反対、死刑を廃止して仇討を復活せよ。
復讐こそ死刑が封じ込めた基本的人権ではないか。
死刑制度は重大犯罪に対しては抑止力はないが軽い犯罪をも死刑とすれば抑止力は充分にある。
宗教の本質は狂信にある。
近代社会はこれをうまく飼いならしたつもりでいたがオウム事件に見られるように日常の裂け目からその本質が噴出した。
いじめられたらやり返すことを禁じられた”いい子社会”がいじめによる自殺が多いという異常社会を生んでいる(いじめそのものはどんな社会にもあるが)。
憲法で一番面白いのは「第15条④ すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問われない。
民主主義というオプテイミズムを成立させるためには、人間には責任能力などありはしないんだというペシミズムが必要なのだ。
「君が代」は音楽として国歌として美しくないが日の丸は素晴らしいデザインだ。
天皇の名前をジンム、スイゼイ、アンネイ、、と暗唱するのは記紀万葉、古代史の本を読むときに便利だから教育しておいた方がいい。
神話は“良識とか教養”などとは異質な世界(例 スサノヲ アメノウズメ)を敢えて子どもたちに知らせるために教えるべきだ。それこそ文化の豊かさだ。
中国は英語、フランス語、ドイツ語、、世界中が使用している「シナ、チャイナ」という呼称を日本に対してのみ禁じている。
これは日本に対する民族差別に他ならない。
ジャーナリストも教員も労働者だ。
彼らに理想を求めても意味はない。
ただ職業倫理、商業道徳を問えばよい。
学歴信仰はなくならない。
CランクDランクの大学を廃止すべきだ。
こういう大学はABランクの植民地であり使い物にならない学者の受け入れ施設として機能している。
一般教養のための大学はいらない。
むしろ世間知を教える教育が復権すべきだ。
まだまだ、愛について、ナショナリズムについて、動物愛護について、、ゴチエイは舌鋒鋭く襲いかかる。
人によっては不愉快で腹の立つこともあるかもしれない。
先生曰く
真実は快いものとは限らない。むしろ恐ろしく、不快なことの方が多い。のであるから。
第十八講が「新聞社と学歴とオカルト記事」と題されていて産経新聞をからかっている。
朝日と学歴主義、ただし朝日が東大など一流大学、産経が二の上が多数派という意味で、表裏一体だ。
産経はオカルト記事を売っていて、それがオウムの種をまくことになった(笑い)。
愛読者?gakisさんの感想をききたいところだ^^。
民主主義とか人権思想、博愛主義、、疑うことなく絶対に正しい真理であるかのようにいつの間にか思い込んで生きている。
そういう枠組み(パラダイム)を一度壊してみて根っこから物事を考えてみる。
そうすることにより今までの思い込みを脱して完全だと思っていたことの限界とか矛盾にも気がつく。
それがより柔軟な思考を可能にして、今ある対立や停滞を打開する道を開くのかもしれない。
理屈はともかく面白い。
俺はこういうの好きだなあ。
昔まだ幼かった甥と姪に面白おかしく古事記の話をしてやりました。
女だてらのイザナミちゃんのイザナギくんナンパデートから始まり、
黄泉の国の夫婦げんかまで話しましたら、二人とも、それで?それで?
と異常なくらい聞きたがりました。
人権とか言ってもね〜すきな人には人権あるけど嫌いな人には人権ないのが決して語られぬ普通の感覚だからねえ、、、ひー怖。
機会をえてはそういう考えを見直して、豊かな人に変化するのが人生かも。
古来の伝説に庶民の世間知がうかがわれるようです。
ハトヤマの言う友愛なんてもそうですが、問答無用の絶対的に正しい言葉を前面に掲げてくるステロタイプの人ってナンカ胡散臭いところがあります。かといって、ゴさんみたいにエキセントリックに迫ってくる人も苦手かなあ。
私はうめさんの方が、、、。
ただし
>人権思想そのものに懐疑と批判の目を
>死刑制度は重大犯罪に対しては抑止力はないが
>人間には責任能力などありはしない
>ジャーナリストも教員も労働者だ。
はシニカルとは思えません。至極真っ当。
「動物愛護」のところだけ立ち読みしてこようかな....