人は人を殺せる。でも、救いたいとも思う 森達也「死刑」(朝日出版社)
2009年 06月 15日
日本では圧倒的多数が死刑制度存置派だという。
オーム事件、光市の母子殺人事件などでそれまで廃止論だった人まで存置に意見が変わったという。
しかし、普通の人は死刑についてどれだけ知っているのだろうか?
冤罪の実態。
死刑判決確定後、32年間の戦いの末に再審で無罪となった免田氏が捜査に当たった警察官に会うと「俺たちは仕事でやった」と言い検察官は「今さら非難するな」といい死刑判決をした裁判官は「御苦労さん」とだけ言ったそうだ。
その捜査、立件の杜撰、でっち上げは呆れるばかりなのだが。
死刑判決をした後控訴しろといった裁判官。
冤罪は多い、フレームアップもある、と語る元検察官。
菅家さんの例をみても司法に信頼は置けない。
その誠実さに。
死刑が確定すると執行まで拘置所の独房(3畳にトイレと洗面所がついた4畳程度、窓はあるが外は見えない)で毎日刑務官と数秒か数分話す以外は無言。
面会は家族と弁護士、そのほかは5名申告させて3名認めるが一日一回15分以内、文通も一日4通以内で一通につき便せん7枚以内、使える筆記具まで制限されている。
死刑執行が当日の朝食後突然知らされる。
その1.2時間後に刑場に連れていかれて吊るされる。
2,30分ほど吊るされるがその間苦しいかどうかは分からない。
毎朝、そういう恐怖におびえながら平均で8年近くを不可視の存在として過ごす。
精神に異常をきたす人もある。
死刑と無期の違い。
マスコミの報道は売らんかな、だ。
残虐で悪いやつと書いた方が売れる。
複眼的にものを見ることをせず分かっていることでも報道しない。
自分の子どものことすら分からない市民が犯罪者の真実の何を分かるのか。
光市の事件での安田弁護士を袋叩きにする世論は彼の言い分をいくらかでも読んだのか。
死刑囚の心情。
死刑になりたくて人を殺した人。
教誨師が自分の仕事を嫌になるほど立派に更生した人。
そもそも俺だってまかり間違えば同じことをしたかも知れない。
被害者遺族の感情。
死刑でも飽き足らないと思う人。
加害者の助命嘆願活動をしている遺族。
光市の本村さんは自分としては加害者を殺しても飽き足らないが死刑制度そのものの是非となると
悩みに悩みを重ねています。と、著者に書いてきたという。
命を尊重する国だからこそ、死刑について深く考えるのだと思います。そして、人の命について深く考えさせ、命の重さを私たちに知らしめ、苦悩させる死刑という刑罰は、それゆえ、私は必要だと思っています。
犯罪抑止効果についてはほとんどの死刑廃止国家(州)では認められない。
冤罪は必ず生じる。
裁判員制度になったらよりその危険性は高くなると俺は思う。
残酷な刑罰でないという保証はない。
論理的に考える限り死刑制度は整合性を欠く。
でも死刑を廃止することに何かためらいがあるとすればそれは人びとの感情、情緒または無意識の領域をも含めての考え方の問題だろう。
仇を討つ。
許せない。
恐ろしい。
不安。
、、。
死刑について刑務官、死刑囚、元死刑囚、教誨師、代議士、被害者遺族、弁護士、検察官、、様々な人に会い、関係の場所を訪れ、本を読み、、悩み続けた足跡のルポだ。
俺は死刑に反対だ。
自分の子どもが殺されたらどう思うかといえば犯人を殺したいと思うかもしれないが制度として死刑はあってはならないと思うのだ。
さて皆さんは?
いずれにせよ、国家のシステムとしての死刑制度は民意に基ずいているのだ。
ときとしてわれわれ人間は間違いを起こします。
裁判でも同じです。必ずそこに間違いがあります。
それが理由です。間違いを起こすという前提に立たねばなりません。
逆に言うと「わたしは間違いません」という人を決して信用しません。
本書にも冤罪で死刑になった人の話が出てきます。
百歩譲って国家による殺人を認めるとしてもそれを官僚たちに委ねるのは全く無意味だと思います。
なぜなら厚生官僚をはじめ間違いや涜職だらけの官僚と法務官僚を分けるものは何もないからです。
官僚が人の生死を判断するなんて!
自分の子どもが殺されたらどう思うかといえば、ただ元どうりにして返してくれとしか思わない。犯人を殺したいと思うかもしれないが制度として死刑はあってはならないと思うのだ。国家による殺人以外の何ものでもないと思うのだ。
「君は足が速いね。」とか、最初から犯人扱いだったそうです。
その人は、虫も殺せないような人でしたよ。
卑劣な上司などは平気で失敗を部下のせいにします。
官僚たちにはそういう心情がきわめて強い。
裁判官や検察官が例外であるとは到底言えません。
反対論者の皆さんの論理、すべて正しいです。
昔、朝生テレビで、死刑制度に関する討論がありました。廃止論者はいい人ばかりでした。存置論者のうちには人格や精神に問題があるのではないかとすら思わせる人もいました。こういう連中の仲間にはなりたくないな、とつくづく思いましたよ。
しかしやはり、死刑廃止には賛成できません。感情の問題です。程度の低い感情を抑えきれるほど私は理性的ではない、ということでしょう。
理性だけで律しきれないとは思います。
それにしても現実の司法官僚には任せたくないです。
裁判員制度もむしろ司法官僚を補強するようなものだと思います。
我が国はますます無宗教国家、即ち社会主義国家になりつつあると感じるこの頃です。
ただし、逆の意味です。
死刑は「縮小報復」だと思うのです。
瞬時にしてすべての苦悩から犯罪者を解放してしまう死刑制度は優しすぎますよ。寿命ある限り苦しませなければ抑止効果は生まれないのではないでしょうか。
怪しげな宗教が若者たちを囲い込み始めている日本では「三倍返し」という教えが広まっているそうですが、それもいけませんなぁ。
怪しげな宗教を別にしても、生まれたときからプロテスタント教徒になっており、まだ縁を切っていない私に「何教徒であろうと日本人は神棚と仏壇を持たなければならない」と真剣に説教してくださる方が何と多いことか。
狭い部屋に閉じ込めて気が狂うような状況に犯罪者を置くよりも、
人の道を教える教育を受けて、労働して、深く哲学して欲しい。
自分がやったことがどういう事なのか自覚させるんです。
わるいことして裁かれて殺されちゃうより、自分の罪を自覚してまともに生きていく事の方が本当は辛いんじゃないかな?と私は思うんだけど、、、
三倍返しってホワイトデーですか^^。
まったく迷い込むと分からない話ではあります。
でもやはり私は冤罪と人、特に役人が死刑判決を下すことがイヤです。
それが一番の問題ですね。
それはそうでしょうね。しかも法務大臣次第で長くなったり短くなったり....
しかし、犯罪者でもないのに数日に1回しか食物にありつけず、目露をしのぐことも出来ない人々が増えています。
>三倍返しってホワイトデーですか^^。
腕を1本折られたら3本折ってやれ、との教えだそうです。
話題を変えますが、日本の法廷では取り調べの録音などの電磁的記録が「文書」とみなされないのでしょうか。ボールペンの手書き意外は認められないと言う不思議。
外国の刑事裁判映画を見ると、尋問を始める前に担当官が自分と相手の姓名から開始・終了時間を秒まで吹き込み、法廷に提出していますね。しかもその録音機がほとんど日本製!
裁判員制度では裁判所だか検察だかが録画を用意するとのことですが、そんなものに客観性はないでしょう。
それでは返って危ない。